2022開成への道

国語偏差値25帰国子女の中学受験挑戦記

「開成を作った男、佐野鼎」を読んで

長男が目標として掲げている開成中学、 その前身となる共立学校の創始者・佐野鼎の物語を読んだ。

駿河藩の旗本に仕える父と共に江戸に上り 弘化二年(1845年)16歳の時に下曾根塾に入門した鼎。 オランダ語や数学、地理、暦学、測量、天文学などを学ぶ他に オランダ式の大砲を使っての実弾演習や兵法の稽古などにも励んでいた。 成績優秀な鼎は19歳で塾頭となり、長崎の海軍伝習所で学んだ後に 西洋砲術師範棟取役として加賀藩に召し抱えられていた。

安政七年(1860年)一月、日本初の遣米使節団の一員としてポーハタン号で渡米し アメリカの視察をする。

日本と比べてはるかに進んだ文明に圧倒され、 全く異なる文化に戸惑い、驚くばかり。

大統領を表敬訪問した際には アメリカの大統領は国民の選挙によって選出されるということに衝撃を受ける。 生まれながらの身分とは関係なしに 能力のあるものがその地位に就くというのは 江戸時代の日本ではまず考えられないことだった。

また、盲ろう学校を視察した時には 点字や手話を使って身体障碍者の子供にも教育を受けさせていることに感銘を受ける。 社会的弱者を見下したり切り捨てるのではなく 教育によって社会に役立つ人材を育てる、という概念も 当時の日本にはないものだった。

約9カ月の旅を終えて帰国した翌年の文久元年(1861年) 幕府の遣欧使節団の一員としてヨーロッパに渡航する。

ロンドン国際博覧会や兵器工場の視察、 貪欲に知識を求めて見聞を広めたところで 「何をなすにも、人材の仕立て方こそが肝要なのだ」という結論に至る。

帰国後は加賀藩の国許である金沢に居を移し 兵学校の教授として教育に力を注ぐ。

攘夷派と開国派の対立が巻き起こす時代の波、 大政奉還によって明治となってからも混乱は続き 新しい時代を見通す”目”として活躍するはずだった 貴重な人材が次々命を落としていく。

そんな中、鼎は金沢藩と七尾軍艦所に英学所を設立し、 ネイティブ講師を招聘して英語教育に注力する。

明治政府から兵部卿という役職を命じられた鼎は 住まいを東京に移した。 政府の仕事の傍らで身分や財力、性別にとらわれない新しい学校を作るため 出資者を募り共立学校を設立、校主となった。

薩長閥が牛耳る官僚組織に嫌気がさしてきた鼎は 官位を捨て、教育者として生きることを決断した。 英学、漢学、筆学、算学の四科を年齢別の3クラス編成で授業を行い 人材の育成に尽力する。

共立学校設立5年目にしてコレラに罹患、 49歳という若さで急逝するが 彼の信念と献身によって近代日本の教育の礎が築かれ、 後に多くの人材を輩出することになる。

ただただ、圧倒された。 江戸末期から明治初期という激動の時代で いち早く教育の重要性に気付き すべては学びがあってこそ、という結論に至る慧眼。 現代の開成学園にもその精神が受け継がれていると思うと 非常に心強く頼もしい。

日本語を読む速度が絶望的に遅い長男に372頁の本を読ませるには 夏休みはあまりに短すぎるが 開成を志す受験生とそのご家族にとっては一読の価値がある。

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